双極性障害で40代の私が背水の陣で婚活したら、14歳年下彼氏をゲットした話

こんにちは!
14歳年下パートナーと仲良く暮らしているでこです。
ここに至るまで長い長い道のりでした…!!

私は双極性障害という躁と鬱を繰り返す精神病に、20代30代を振り回されてきました。
躁の時はたくさんの男性と付き合い、鬱の時は一人でこもって過食して太り…。

そんな中で、なんとかかんとか生き抜いて、14歳年下パートナーとの同棲に辿り着いた経緯を書いてみます。
同じ病気に苦しみながら、人生のパートナーを探す方の、何かの参考になれば幸いです。

発症してからの人生を躁状態、鬱状態、と解説(?)しながら全部書いたので、大分長くなっちゃいました。
面白いと思ったり、自分と似てるなと思った所だけでもつまみ読みしていただければ嬉しいです。

目次
  1. 双極性障害を発症したのは18歳の時
    1. 専門学校に行けなくなって初めて過食に
    2. 不動産屋も契約も入居もなにもかもが初めて
    3. 7歳年上のフリーターと付き合うが私の浮気が原因で別れる
    4. キャバクラを掛け持ち、早くも部屋を引き払うことに
  2. 色んな業種の男性と付き合い、転々とする20代
    1. 金沢で色んな男性と寝る
    2. 富山で元暴力団の男性とデリヘル経営
    3. 24歳で再び上京し、イベントコンパニオンに
    4. 初めての会社勤めで、毎日違う男性とデート
    5. 海外留学をしてみたけれど鬱が酷くなる
    6. 大阪で舞台漬けの日々
  3. モテなくなってきた30代
    1. 三度東京へ…事務と不倫
    2. 名古屋で結婚を考えた人は一瞬でダメになった
    3. 4回目の東京で世の中がコロナ禍に
  4. 死を待ちながらのニート生活
  5. VR世界で好きになった人
    1. VRで顔も見たことない人を好きになる
    2. 精神病のリハビリ施設でも鬱になる
    3. 彼との別れで過去最大の鬱
  6. 初めての婚活からの絶望
    1. 意を決して婚活パーティへ
    2. 会っていて楽しい男性は家にお風呂がなかった
    3. 年収1000万円の男性とは3回目で喧嘩
    4. 何人かデートしたけど心が動かない
    5. 元彼と復縁するも再度破局
  7. 小田桐あさぎさんの「魅力覚醒講座」との出会い
  8. 14歳年下彼氏ができた!!
    1. 運命の人はずっと傍にいてくれた人だった
    2. 14歳年下彼氏をゲットできたのはなぜ?

双極性障害を発症したのは18歳の時

専門学校に行けなくなって初めて過食に

専門学校のメイクレッスン

その頃私は東京の舞台の専門学校に通っていました。
役者になりたくて上京したのですが、うまくクラスに馴染めず、ダンスも上手く踊れず、学校を休みがちに。

自分でやりたいと言って出てきたのに、なぜやる気が出ないんだろう。
うまくやれなくて恥ずかしい。
何もかも楽しくない。辛い。
自分は本当に芝居が好きなんだろうか。

部屋に塞ぎこんで、誰にも相談できず、出口のない悩みの中に一人きりでした。
モヤモヤした感情を解消する為に、知らず知らずのうちに食べるという方法を取るようになり、初めて過食しました。
この時に双極性障害を発症したのだと思われます。

結局、学校は半年で退学することになりました。
学生寮も出なければならなくなり、途方に暮れました。

就職もしていないのに、一人で仕送りもなく東京で暮らせるものなのか?
何も分からず、不安に駆られる世間知らずな私。
それでも滋賀の実家には帰りたくありませんでした。

不動産屋も契約も入居もなにもかもが初めて

最初に行った不動産屋では、優先順位が決められず、部屋を選ぶことができませんでした。
それでも何とか数部屋見積り、内見に。
そして一番最初に見た部屋で決めてしまいます。

敷金・礼金の欄に1.1.とか書かれているのを家賃1ヶ月分ということを知らず、1万円だと思っていました。
見積書で何十万もかかることを初めて知り、びっくりしました。
よくお金払えたなと思います…。

入居の日、照明とガスコンロがない事に気付きました。
そういうものは部屋に付いていると思っていたのでびっくりです。

このままでは夜を明かせない!と焦った私は、急いで駅前のショッピングセンターに買いに行きます。
(ガスコンロなんて後日でもよかったのに…)

照明とガスコンロを抱えて、汗だくになりながら徒歩10分の距離を30分くらいかけて帰ったような気がします。
途中から涙も出てきて、もうぐちゃぐちゃ。

もちろん誰も助けてくれず、一人暮らしって大変だなぁ…って見上げた夜空を今もぼんやり覚えています。

ガスコンロがめちゃくちゃ重かったんです…
その後照明つけるのも大変でした。

部屋に対して荷物が多すぎて半年くらいこんな状態…

7歳年上のフリーターと付き合うが私の浮気が原因で別れる

そんなこんなありつつも、浦安で、何とか一人暮らしをスタートさせた私。
部屋が落ち着くまでは半年以上かかったけど、その間にも家賃は発生するのでとにもかくにも働きました。

専門学校時代から働いていた土日のディズニーランドキャストに加え、平日はオフィスコーヒーサービスの営業をすることにしました(時給が1500円だったから)

飛び込み営業なのでしんどさもありましたが、割と楽しくやっていました。
半年後くらいに会社に行くのが億劫になり、突然辞めましたが…。

営業時代の仲間

さらに途中から夜は西葛西のお店で水商売を始めました。
100均のポーチにライターと名刺を入れて…(貧乏性)
なんせ若かったので、お店のお姉さんにも優しいお客さんにもある程度可愛がってもらえました。

その頃、私はディズニーランドキャストの先輩に好きな人がいました。
大人っぽくて優しく仕事を教えてくれる大学生。

だけどなぜか私はその彼の友達である7歳年上のフリーター(その人も同じディズニーランドキャスト)と付き合うことに。
彼も優しかったし、楽しく付き合っていたけど、結局私の浮気が原因で別れました
(浮気相手は水商売の店で出会ったボーイです)

この辺りの自分のいい加減さが、自分でもよく分からず混乱していたのですが、後にこれも双極性障害の症状だったと分かります。

キャバクラを掛け持ち、早くも部屋を引き払うことに

ある時受けたオーディションをきっかけに、三鷹の劇団に所属することになりました。
浦安から通うのは遠いので、浦安を引き払って立川の友達の家に居候することに。
その際、家電を別の友達の家に置かせてもらうことになりました。

結局それは預けたままです…

逆に、立川から舞浜に通うのが大変になったので、ディズニーランドキャストは辞めることになりました。
劇団の稽古があるためバイトに時間を割けず、近場で水商売を掛け持ちしました。

キャバクラ時代のコスプレデー

しかし、最初に働いた西葛西のお店とは違い、雰囲気の悪いお店が多かったです。
悪質なお店もあり、お給料を払ってくれなかったりしました。
この時の経験から、私は三鷹辺りがあまり好きじゃありません…。

職場が落ち着かず、収入も不安定。
劇団にはしばらく通いましたが、ここも人間関係や雰囲気が気持ち悪くなり行かなくなりました。

友達の家で過食して、ずっと眠る日々。
この頃、鬱期だったと思います。
水商売はかなりいいお店でない限り双極性障害を悪化させると思います。

友達の家でずっと過食していたので、恥ずかしいわ申し訳ないわで居たたまれず、少し実家に帰ることにしました。
実家にいる間はお金の心配をしなくていいので、少し楽になりました。
そしてひたすら運動し、痩せました。

その頃、姉が就職し、最初の赴任地が石川県金沢市になりました。
姉が「地元に帰るのが嫌なら金沢に来たら」と言ってくれたので、姉の家にお世話になることにしました。
お金も無くなっていたので助かりました。

色んな業種の男性と付き合い、転々とする20代

金沢で色んな男性と寝る

痩せた私は新天地に胸を躍らせ、意気揚々と金沢に降り立ちました。
引越し後は躁の始まり。
全てが上手くいく気がしてワクワクします。

葬儀会社で少し働いたのち、派遣で携帯ショップ店員になりました。
と同時に水商売もまた始め、昼も夜も働き、あっという間にお金が溜まりました。

なので姉とうまくいかなくなったときも、すぐ姉の部屋を出て、自分で部屋を借りました。

躁の波に任せていくつも恋愛し、何人もの男性の車に乗り、部屋へ行きました。

こちらが惚れた場合には、20万円もするカーナビを貢いでしまったこともあります。
「このカーナビがあればでこちゃんにもっと会いにいけるかも」なんていう安い口説き文句で笑

ウェディングモデルをしたりもした

貯金の楽しさに目覚め、働き通し、風俗にも手を出した結果、怒涛の鬱がやってきます。
あんなに綺麗に痩せた身体もあっという間に太りました。

お店に出てもお客さんの前で泣いてしまう状態が続き、心配した同僚に「でこちゃん鬱だって!」と言われて病院に連れていかれました。
(その子もうつとパニック障害で薬を飲んでいたので、自分の通院してる病院に連れていってくれたのです)
この時は適応障害だと言われました。
ただこの時は薬が怖く、結局飲みませんでした。

この頃は風俗店で出会った元暴力団の男と恋仲でした。
彼が富山でデリヘルを経営するというので、お金を100万円貸し、風俗店を辞め、流れるように富山についていきました。
風俗店を辞めたら、鬱はマシになりました。

富山で元暴力団の男性とデリヘル経営

富山では、デリヘルの待機所用の部屋を借り、そこに寝泊りしました。
私は経営者の妻という立場(結婚してなかったけど)で、経理や電話受付、ドライバーなどをしていました。

ペーパードライバーだったけど、練習して富山のホテルだけ運転していけるようになりました笑


デリヘルとは

デリバリーヘルス。派遣型のファッションヘルスのこと。
店舗がなく、客のいる自宅やホテルなどに風俗嬢を派遣し性的サービスを行う業態。もちろん本番はない。

そこで何人もの色んな女の子を見ました。
楽しそうに仕事する子、お金の為と割り切る子、遠い土地から子連れで来る子、友達と一緒に風俗店を渡り歩いている子達…。
金沢でも風俗をする女の子と同じ立場で知り合ったけれど、経営側から見てるとまた少し違った見え方もしました。

一人の女性として私が感じたのは、どんなに楽しそうに仕事している子でも、風俗を本当に楽しめる子なんかいない。
精神構造が違っている人しか、風俗は務まらない。

事実、私は無理でした。
彼の店では私は風俗嬢として働かされたことは一度もなく、彼とはこの1年後くらいに別れることになりますが、それだけは良かったなと思います。

24歳で再び上京し、イベントコンパニオンに

なんだかんだでデリヘル経営は安定していて、初期費用の100万円も返してもらったし、お金も溜まったのですが、24歳の私は心の中では「東京に戻らなければ」と思っていました。

これを読んでいる人に、私がまだ役者を目指しているということを見抜けた人はいないと思いますが笑、一応まだ忘れてはいなかったのです。

デリヘル経営を彼に返し、単身上京しました。
この時は亀戸に部屋を借りて、彼が入居費用や家賃を払ってくれました。

どこから始めよう?とバイト冊子をめくり、イベントコンパニオンの会社に数社登録しました。
業界としては遠からず近からず…。


イベントコンパニオンとは

イベントや展示会などで展示品の横に立ったり、展示品の説明をする女性。
仕事内容はキャンペーンガールやモデルに近いものから、司会や受付色の強いものまである。
東京ビッグサイトや幕張メッセ、クライアントの店舗などが主な職場。

毎回違う内容で違う所に仕事に行く、というのは、ある程度刺激があり性に合っていたようで(しんどい時もあるのですが)、1年間イベコンをやって暮らしました。

イベントコンパニオン時代

その結果、「毎日同じ時間に同じ場所に行く仕事がしたい」と思うようになり、派遣会社に登録し、一般事務を始めました。
(本来はこれは私には合ってないのですが、この時は少し鬱気味で頭を働かせたくなかったのだと思います)

初めての会社勤めで、毎日違う男性とデート

派遣とはいえ、オフィスに通勤するのが初めてだったので、最初は物珍しく、楽しかったです。
引越しこそしていませんが、新しい環境に躁になっていたと思います。

IT系の会社なのにOSという言葉すら知らなかった私ですが、若くて強気だったので、お局達にあきれ顔をされてもなんのその、どこ吹く風でした。
その上、25歳で元コンパニオンの私は大層モテました。
月曜日から金曜日まで毎日違う男性とデートし、銀座で晩御飯を奢ってもらいました。

ここでうまいこと結婚相手を捕まえていれば良かったのですが…。

この頃の私は結婚を全然考えていないわけではなかったのですが、全く危機感がありませんでした。
それに、結婚すると自由がなくなるのではないか、とかなり漠然と根拠もなく思っていました。
役者になるための行動を何もしていないのに、「私は芝居をやりたいからなぁ」なんて思ってもいました。

芸能事務所には登録し、たまにエキストラやスタンドインの仕事をしていましたが、正直やる気が落ちてきていました。


スタンドインとは

撮影前に、カメラマンや照明が配光や立ち位置を確認するために動く俳優の代理。
オーディションで俳優と似たような背格好の人が選ばれる。

何人もの男性とデートした中で、1つ年上のSEと付き合いはじめました。
会社員の彼氏は初めてだったので、この人と結婚するのも有りなのかなぁと考えたりもしました。

会社は、1年位で鬱になって行けなくなり、辞めました。
その頃、富山の彼から「自己破産するからもう家賃を払えない」と連絡があり、亀戸の部屋を引き払うことになりました。
彼ともそこでお別れです。

しばらくSEの彼の部屋に住んだのですが、価値観が合わず、別れることに。
もう自分で部屋を借りる気力がなかった私は、実家に戻り、留学をすることにしました(なぜ突然?)。

海外留学をしてみたけれど鬱が酷くなる

バンクーバーとフィジーに短期留学に行き、最終的にロスアンジェルスに長期留学に行きました。

バンクーバーのホストファミリー
L.A.の蝋人形館で浮かれる私

しかし、英語は上達しないわ、友達はできないわ、金銭トラブルに巻き込まれるわで、ほとほと疲れ、家にこもってチョコミントアイスを5ℓのカップから直接食べ続ける日々…。

今までで一番ひどい鬱になって、泣きながらパジャマで飛行機に乗って帰って来ました。
空港で日本語が通じること、質の高いサービスに、心からホッとしました。

今までの行動は、一応自分なりに反省を踏まえ「今度はこうしてみよう」「こうしたらどうだろうか?」と、考えて選んできたつもりでした。
でもなんだかおかしいことに自分でも薄々気付いていました。

もうこれ以上一人でやるのは無理かもしれない…。

そう思った私は精神科を受診することにしました。

そこではうつ病と診断され、抗鬱剤を出されました。
もうあんな辛い思いは嫌…。
私は素直に薬を飲むことにし、この病院には6年くらい通いました。

大阪で舞台漬けの日々

アメリカから帰って来た私は、とあるきっかけで大阪の芸能事務所に所属することになり、大阪で芸能活動を再開しました。

演技を教えに来ていた先生が演出に入ってくれ、事務所主催で舞台をするようになりました。
小劇場ではありますが、久しぶりに本格的に舞台に立て、アドレナリンが出まくりでした。

ここでは6年くらい芝居をしました。

劇団の仲間
舞台リハーサル

演出の先生に、

舞台に立っているときは躁で、終わったら次にレッスンに来るときには恐ろしく鬱になってるのが手に取るように分かる。
お前は躁鬱だ。
舞台の上でしか生きていけない。

と言われました。

この時はまだ双極性障害という名も、躁鬱病(双極性障害の前の名前)という名も知りませんでした。
うつ病は知っていたので(診断されていたので)、ふーん…?という感じでした。
ただ、自分でもなんか波があるなぁと感じていて、それって病気だったのかな…?と思い始めたのがこの頃でした。

なんとか舞台をやりながら芽が出ないか、売れるツテがないか、と考え、怪しい人に騙されたりもしつつ、頑張りましたが駄目でした。

騙された辺りから鬱が酷くなり、事務所も辞め(元々あんま良い事務所ではなかった。それでも大阪ではマシな方だったかもしれないけど)、引きこもっていきました。

ほんとに酷い鬱の時は写真ないけど、なんか髪型も眉毛も変になる

6年間真面目に抗鬱剤飲んでるのに、マシになってないなぁ…?と感じた私は、別の病院へ。
そこで初めて、双極性障害と診断されました。
32歳。初めて精神科へ行ってから12年が経っていました。

そこから双極性障害の治療がやっと始まったのですが、この時は薬が合わず、2ヶ月程度で通院できなくなってしまいました。
それに、「6年飲んでいた抗鬱剤が双極性障害を悪化させた」と言われたことのショックが大きく、精神科医への不信感が募っていました。

医者なんか信用できない…。
もう二度と薬なんか飲まない!自分で治す!

と、この時はそう思いました。

しかし鬱は酷くなるばかり。
布団から出られず、泥水の中に溺れているような感覚で、一寸先も見通せず、背筋がぞぉっとして怖かったです。
この時の鬱も本当に苦しく、今思い出しても怖いです。

モテなくなってきた30代

三度東京へ…事務と不倫

この状態からどうやって動いたのか覚えてないのですが、また東京に引越しました。
今までの経験上、引越しをしたら躁になることが体に染みていたのだろうと思います。

躁になったらその後鬱になるので良くないのですが、この時は辛すぎてとにかく助かりたかったのだと思います。
躁でもいいから、とにかく鬱から抜け出したかった。
たとえ後からまた鬱になるとしても、それを責めることはできません。

三度上京した私は、今度は高円寺に住みました。
とりあえず派遣会社に登録し、また事務を始めました。
事実上、役者は廃業です。

この時はお金がなかったので、めちゃくちゃボロいアパートの1Fに住みました。
高円寺なのに家賃5万と言ったら想像してもらえるでしょうか…。
それなのに不動産屋のいいエサにされて、入居費用40万円くらい払いました泣。

この部屋は湿気が凄くて、ブーツとか革ジャンとか全部カビが生えました…泣

目論見通り(?)引越した後は躁になり、最初の内は楽しく働けました。
女上司や先輩が「仕事が早い」と私を気に入ってくれて、ある程度自由にさせてくれました。
忙しい職場なのも良かったです(躁の時は忙しい方が好き)。
お金も貯めたかったし、終電まで残業したりしていました。

派遣の送別会。何故か変顔してる私…笑
部署の人達と桃狩りに行ったりもしました

躁になったのでもちろん恋愛もしました。
会社の人と何人も寝て、一番関係を持った人は不倫でした。

奥さんは私達と同じ会社で、私が働き始めて少しして、育休から別部署に戻ってきました。
何人かで家族ぐるみでバーベキューをする機会があり、そこで私は奥さんに初めて会いました。
赤ちゃんが可愛かったので遊んでたら、後に奥さんは私のことを「めっちゃいい人~」と言ってくれていたそうです。

私も大概だけどその男はどういう気持ちでそれ聞いてたんだろう…
他にも最低なエピソードはあるけどここでは控えときます…

そんな最低な不倫も、もちろん長くは続きませんでした。
鬱期が来てメンヘラっぽくなり、「妊娠したかも」「離婚してよ」とかうそぶくようになりました。

会社にも行けなくなり、女上司や先輩にあんなに良くしてもらったのに(最終的には不倫の相談もしました)辞めることに。
「またいつでも戻っておいで」と言ってもらえたことが救いでした。

この会社の人は何故かメンヘラに優しかったなぁ

名古屋で結婚を考えた人は一瞬でダメになった

「田舎に行きたい…」
そう思った私は東京を離れ、愛知県のみよし市というところに引越しました。
でも不便だったのですぐ名古屋に引越しました。

名古屋では、「部屋を落ち着く空間にしてみる」という試みをしました。
ベッドを買ったり、多肉植物を育てたり(枯らしちゃったけど涙)、棚を飾ってみたり。
頑張って自炊もして、お弁当も作ってみました。

その効果は少しあって、1年以上同じ部屋に住んだのはここが初めてでした。
だけどやはり更新料を払うまでは行きませんでした。

名古屋では人間関係が上手くいかず、派遣事務を転々としていました。
仕事は覚えられるのですが、名古屋の人とコミュニケーションがうまく取れないのです。

派遣元の社員さんの運転する車に乗っていた時、話が通じず、同じ空間にいるのが苦痛で、走行中の車から逃げ出した事もあります。
社員さんはびっくりして怒ってましたが、私にとっては死ぬより話が通じないことの方が苦しかったです。

仕事中の私

これからどうしたらいいかも途方に暮れていました。
芝居もやめて、やりたい事もないし、だけど食っていかなきゃいけないし…。

どこで何をやってどのように暮らすか。
全くビジョンが見えませんでした。

そんな頃、名古屋のカウンセラーの先生が開催していたHSP交流会で、ある男性と出会いました。
弁護士で、物腰柔らかな同い年の男性。


HSPとは

Highly Sensitive Personの略で、生まれつき感受性が強くて敏感な気質を持った人のこと。
アメリカの心理学者エイレン・N・アーロン博士により提唱されました。

双極性障害のことは話していないけど、HSPのことは話しているので、一般の知り合いよりは話が通じやすく、仲間意識もありました。

彼と結婚して養ってもらうのが、一番の解決法では?
と思った私は彼と付き合うことに。

なのに付き合ってしばらくすると、急に私は彼のことが嫌になってしまい、自分から別れを切り出しました。
嫌なことをされたわけでもないし、彼は私のことを思ってくれていたと思うのに、待ち合わせで彼の顔を見た途端、「嫌だ」と思ってしまったのです。

今考えても謎です。
数年後、婚活が上手くいかないときには、彼のことを思い出し、なぜ別れてしまったんだろうと後悔したこともあります。
それくらい謎の言動でした…。

これは愛着障害の一種で、自分を本当に大事にしてくれる人を遠ざけてしまうという症状だったのかな、と思っています。

また、名古屋ではある一人の女性と友達になりました。
職場で意気投合した私達は、急激に仲良くなりました。
彼女は複雑な家庭環境で育ち、結婚していましたが、子供はおらず、旦那さんと離婚したいのだと言っていました。
私は「離婚したら近くに住もうよ!」などと言って応援していました。

最初はすごく仲良くしていて、彼女も、「でこちゃんには何でも話せる」とか「喧嘩しても仲直りしようね」とか言って、酔った時にはキスしてきたり。
私は「ほんとにそこまで仲良くしてくれるのかな…?」と不安に思いつつ、嬉しかったので信じました。

だけど少しづつ約束をドタキャンされることが多くなって、私は会えないことに不満を募らせるようになりました(ドタキャンの理由は体調不良とか家庭の事情とか)。
久しぶりに会った時に、携帯をいじられてたのが悲しくてそう言ったら、「私でこちゃんの彼氏じゃないし」と言われました。

そりゃそうかもしれないけど、あんなに好きだって言ったのに、ひどくない?
それなら最初からあんな風に優しくしたり、「何でも言い合おうね」とか言ったりしないでよ。

そう思った私は少し声を荒げてしまいました。
すると、育った家庭環境から、声を荒げられることにトラウマがある彼女は、私のことを既読スルーするようになりました。

そこで友情は終わりです。

その後謝ったり、説明したりしましたが、彼女の心は帰って来ませんでした。
この出来事は、私にかなりの傷跡を残しました。

病気のせいで長い人間関係とか、深い人間関係を築いてこれなかったので、短い間ではあったけど、彼女はかなり自分の近くまで招き入れた最初の人でした。
その人がすぐいなくなってしまった悲しみと、そんな人に声を荒げてしまった自分がショックでした。
私は自分のことを話し合いができる人間だと思っていたし、感情に任せて怒鳴るなんてことをしないと思っていたのです。
後にこれも症状だと分かるのですが、この時は自分の知らなかった一面を知って、かなり落ち込みました。

4回目の東京で世の中がコロナ禍に

そして何を血迷ったのか、なぜか4回目の東京…。
好きな保育士の先生がやっている保育園の近くにいたいという謎の理由で上京。
今度は町田。ほとんど神奈川県。

保育園には見学に行って、先生と直接お話もできましたが、私は保育士資格を持っていないので働くことはできません。
今から勉強してみる…?と少し調べてみましたが、気が遠くなりそうでした。

何をしていいかわからず、パッと見た求人にあった、IT系ベンチャー企業で働き始めました。
町田に暮らしてるのに赤坂まで通勤する羽目に泣笑。

なんかイベントの仕事をしていました

新しいキャリアを積もうと思ったのですが、半年ほどで玉砕(まぁ社長も変な人だったけど…)。

この会社を辞めた頃から世の中がコロナ禍になり、「え、私もう生きていけないじゃん…?」と思いました。
37歳になって、男性からのお誘いもとんと減っていた私。

女を売ることもできず、コロナで接客業もできず、どうやって食いつなぐ…?
そもそも何のために食いつないでるんだ…?
別に生きていたくなんかないのに…?

どんどん生きている意味が分からなくなり、とりあえず家賃を払う重責から逃れたく、何もしたくなく…。

「こんな娘に産んだ責任を最後に取ってもらおう。それくらいいいだろう」
度重なる自己嫌悪から、突飛な他責思考になった私は、あれほど帰りたくなかった実家に戻ることにしました。

そして、「今ある貯金で少し楽をして、貯金がなくなったら死のう」と決めました。

死を待ちながらのニート生活

完全ニートを4年やりました。
最初の2年はマーダーミステリーというテーブルゲームにハマり、それこそ寝食忘れて昼も夜もオンラインでそのゲームをしていました。
オンラインでは無料で遊べたんです。

その頃作ったマダミス

声だけの交流なので着替えなくていいしメイクもしなくていいので楽でした。
そのくらいの距離感があると、対人のしんどさが半減し、結果2年同じコミュニティにいることができました。
今までで最長です。
でも逆に言うと、2年で駄目になりました。

「私はあの子を誘ったのに、あの子は私を誘ってくれない…」
「私より他の子と仲良くしてる」
「私のいないゲームですごく楽しそうにしてる…」

好きな子が自分と一番に仲良くしてくれないことがSNSで見えることが、とても苦しかったです。
かといって、束縛できるわけもなく。

私には、マーダーミステリー自体を辞めるという選択しか取れませんでした。
いつも通り、その場から「引越し」たのです。

VR世界で好きになった人

VRで顔も見たことない人を好きになる

マーダーミステリーを辞めたのとほぼ入れ違いくらいに、VRにハマりました。
VRゴーグルとか特別な機器がないと遊べないと思っていたのですが、パソコンでもできると聞き、友人に教えてもらってノートパソコンでVRの世界に入りました。

とあるワールドの風景

信じられないくらい美しい世界。
現実ではありえない景観や不思議が詰まっていて、一気に魅了されました。

私のノートパソコンではスペック的に無理があり、VRに魅了された私はすぐに高性能のゲーミングPCとVRゴーグルを買いました。

VRゴーグルを付けると、さらに素晴らしい世界が広がっていました。
現実でない不思議な世界に、まさにそこにいるかのような感覚。

初めて参加したVRC世界旅行。ギリシャにて

自分の声とアバターで、世界中の人達とコミュニケーションが取れ、友達ができます(英語そんな喋れないけど)。
何より景色が綺麗なので、一人でぼーっとしてるだけでも楽しいのが好きでした。

だけど慣れてくると、いつの間にか日本人コミュニティにいるようになり、やはりそこにあるのも人間関係でした。
そこでも私は恋愛に走りました(というか好きな人ができちゃう…)。

8歳年下の男性と恋愛関係になって、VRの中でデートを重ねました。
びっくりするくらい楽しく、夢見心地でした。
少しづつ、自分の年齢や病気のこと、結婚したいということを話し、彼はそれを受け入れてくれました。

40歳でこんな展開があるなんて!
まだ実際に会う前から私は有頂天になり、彼との結婚を夢見て毎日浮かれました。

その頃私は、奈良の山奥にある、精神病のリハビリ施設に入ることが決まっていました。
貯金の残りで、病気を治せるなら治したいと思い、探し当てた施設です。
予約がいっぱいなので順番待ちをしていました。
その順番が来て、私は奈良に引越しました。

精神病のリハビリ施設でも鬱になる

そこでは、朝起きて夜寝る。
午前中は散歩や軽い運動をしたり、認知行動療法やアサーションといった認知を捉え直す座学を学んだり。
お昼は瞑想をして、自分達で昼食を作ったり。
午後は自由時間で、自分でやる事を決める…といった感じの流れの毎日でした。

夕方にはお風呂に入り、夕食を取ったら、私は夜はVRに入り、彼と会って22時くらいに寝ていました。
そして朝は6時に起きるという健康的な生活で、気に入っていました。

自然豊かな療養地で畑をやったり
あまごの放流をしたり

ただ、ご飯が多くて、出されただけ食べてしまう私はまた太ってしまいました。
マーダーミステリー漬けの生活で痩せていたので、もう二度と太ることがないと思っていたのに、かなりショックでした。

また、そこでも人間関係があります。
そこはシェアハウスで、2Fの女性部屋は私ともう一人の方で、最初はとても良い感じだったのですが、一人の女の子が入ってきて3人になった途端居心地が悪くなりました。

トイレが異様に被ったり、私が洗面所に行こうとしたら彼女がお風呂に入ってたり…。
彼女が、特定の男性入居者と仲良くしすぎるのも何故かすごく気持ち悪くて嫌でした。

彼女に何かされたわけではないのに、彼女のことが嫌で嫌でたまらなくなってしまったんです。
なんでだろう…。

その施設には1年いて認知を改善させる予定だったのに、太ったことと彼女のせいで施設を出たくて仕方ありませんでした。
その頃ちょうど彼との結婚話が進んでたので、これ幸いにと退所してしまったんです。

彼との別れで過去最大の鬱

ところが、結婚準備のために実家に戻った私は、実家は実家でストレスマックス。
ニートしてた頃は(今もニートだけど)2年も居られた実家に、出られる算段がつくと「いつまでいないといけないんだろう」という気持ちになる。
それで彼をせっつくも、彼の仕事が忙しくなり、結婚話が進まなくなってしまいます。

一旦ボタンが掛け合わなくなると、今までが嘘のようにコミュニケーションが取れなくなりました。
彼は不穏な空気になると黙ってしまう。
それが私を異常にイライラさせ、かなりきつい言い方で責めてしまう。

冷静になってから、なんでこんなにもイライラして止められないんだろう、と自分を内観しました。
双極性障害の本に、同じようなことが症状と書かれていて、これは病気のせいなんだろうか?と考えるようになりました。

人間関係において、破壊行為となりうる『7つの致命的習慣』をほぼ全てやってしまっていました。

  • 批判する
  • 責める
  • 文句を言う
  • ガミガミ言う
  • 脅す
  • 罰する
  • コントロールするために褒美を与える

なぜこの7つの行動を人はしてしまうのか?
それは、早く結果を出したいからだそうです。

彼に別れたいと言われた日、「こんなに簡単に別れるなら、なんで好きだなんて言ったんだ」という気持ちがこみ上げました。
名古屋の女友達の時に感じた気持ちとよく似ていました。
もしかして、あれもこれも、症状とか、認知の歪みなのかもしれない、と思いました。

別れた後も、録画した彼との会話を聞いて、自分の症状と向き合いました。
(その頃私はVRデートを録画していました)

初めての婚活からの絶望

意を決して婚活パーティへ

一度実家を出られると期待した私は、結婚話が破談になっても、もうこれ以上実家にいるのが無理になっていました。
何とかしなければと焦り、地元の婚活パーティに行ってみることにしました。

まともな化粧が久しぶり過ぎて、新しい化粧品を買いそろえるところからスタート…

すると、悪くない男性がたくさんいて、希望が持てました。
一人一人と数分づつ話す形式が私には合っていて、あまり苦痛じゃなかったので、その後も何回か参加しました。

私の希望は年収500万円以上だけ。
容姿や年齢に全く拘らなかったので何人かとマッチし、デートしました。

京都に行ったりした

会っていて楽しい男性は家にお風呂がなかった

会っていて楽しい男性がいたので3回くらいデートしました。
ノリが良く、話していると元気になれる感じ。
容姿もそこそこで、同い年だけど若く見える人でした。

彼はサラリーマンを辞め、実家の家業を継いだところでした。
実家の隣の家屋に住んでいて、そこはお風呂がなく、お風呂は実家に入りに行くのだとか。

田舎の家だとそういうことがあったりするんですよね…。
同じ滋賀県でも、私が住んでいたところより彼の住んでいるところはかなり田舎だったので、いまだにそういうのあるんだ、とびっくりしました。

私はそんな生活は嫌なので、「近くの駅前のマンションとか借りない?」と提案してみました。
でも彼の腰は重く、あー彼は今の生活に満足しているんだなーと感じました。

そんな生活で満足している人とは一緒になれないな、と思いお別れしました。
最後に寝てみた(ちょっと躁入ってた)のですが、全く合わなかったので、別れて正解でした。

年収1000万円の男性とは3回目で喧嘩

年収1000万円に惹かれて3回くらいデートした男性。
容姿はイマイチだけど、建築系の仕事をバリバリやっていました。

彼は前妻にすごい金額の貯金を使い込まれて、別れたそう。
そんなに大きく散財さえしなければ、相手に求めるものは多くないと言ってました。

2回目のデートがクリスマス時期だったのもあり、何かプレゼントしたいと言われました。
私はプレゼントは送るのも送られるのも苦手だから、と断ったのですが、それでも送りたいと言うので、ゲーミングチェアを買ってもらいました。

デート中に手を繋がれて、「嫌だなー」と感じたのですが、そのまま繋いでいました。
今思うとこの時点で無理だろーと思うのですが、この時は年収1000万だしなぁ…と我慢しようとしていました。

3回目のデートの約束をしていた日、おはようラインが来たので、体調が悪いことを書きました。
するとその後、彼から「今日大丈夫?リスケする?」といったようなラインが来ていたようなのですが、私はそれは見ずに準備をしていました。
約束の時間になってスマホを見て、私は「え?迎えに来てないの?」と思いました。
「準備できたよ」と送ると、「じゃ今から向かうね」とのこと。

私は一旦約束したんだから、相手から返信が来ない限り、約束の時間通りに迎えに来るべきでは?と思い、めちゃくちゃイライラしました。
相手は「返信が返ってこないんだから仕方ない」というようなことを言っていたけど、私からしたら「無駄足したくないだけでしょ」という感じ。

私の考え方もけっこう極端なのは自覚があります。
一回イライラするとしばらく収まらないのも、ちょっと病的な感じがします。

でもこの時は、彼との関係を続けていくために自分の症状を収めたいと思わなかったし、これで終わるならちょうどいいくらいの気持ちでした。
最初から全く好きではなかったんでしょうね…。

何人かデートしたけど心が動かない

そんな風に何人かとデートしてみたけど、全く心は動かず…。
「心なんか動かなくても、生きる手段として結婚するのよ」と言い聞かせてみても、なんでそこまでして生きなきゃいけないんだろう…という気持ちに。

さらに、「例えばこの人たちと結婚したら、私は一生滋賀にいることになるんだ」と想像したらなんだかすごく嫌な気持ちになりました。
かといってじゃあ他の地域の人とどうやって出会うんだろう?
転勤族やたまたま滋賀にいる人を狙うのは確立が低すぎる。

そもそも私じゃあどこに住みたいの?と言われると、それも選べない。
ただ滋賀は嫌…滋賀が嫌というより、親の近くが嫌。

そんなことを考えているともうなんだかどうでもよくなり、死にたくなってきます。
彼とならどこだって良かったのに…。
元彼のことを考えてしまい、だんだん婚活パーティに行くのが億劫になっていきました。

その時相談していた友達に、「でこちゃんはお金の為に割り切って好きでもない人と結婚なんてできないタイプだと思うんだけどどうかな?」って言われて、結局「できない…!」って思いました。

ちょっと躁入ってるんだけど、「愛が全てだ…!!!」って笑。
でもやっぱりお金も必要なんだけど…。

元彼と復縁するも再度破局

それで、元彼に連絡取って、ぐいぐい2ヶ月位VRストーカーして、復縁しました。

普通つきまとわれたら嫌がると思うんだけど、彼もちょっと変な人なんだと思う。
復縁の最後の決め手は色仕掛けだったし。

その時は、もう症状が出ないように、とそればっかり必死でした。
できるだけ明るく振舞って、彼を一切責めないようにして…。
でも、以前とは違って彼の愛情が感じられないことも多く、しかも結婚への状況はかなり厳しくなっていました(仕事がさらに激務に&彼の実家のローン問題が発生…)

しばらく頑張ったけど、結局同じような結果に。
最後はほとんど彼が私をブロックするような形で終わりました。

かなり執着していたから、本当に辛かったです。
なんで一度好きだと言った相手に、そんな酷いことができるんだろうと思いました。

ずっと涙が出て、居ても立っても居られなくて、だけどどこにも向かう所はなくて。
タクシーで夜の琵琶湖に降りて、冬の湖に入ってみたりもしました。
でも怖くて死にきれない。

元彼ともやり直せない。
婚活もできない。
自分一人でも生きられない。
やりたい事もない。ただ死ねないだけ。
苦しい。死にたい。安楽死したい。

そんな気持ちで、毎日死ぬことばかり考えていました。

小田桐あさぎさんの「魅力覚醒講座」との出会い

死ぬことばかり考えていた私が、ある日、本屋で出会ったのが小田桐あさぎさんの本でした。

後に買ったあさぎさんの著書

その時は本を買わなかったのですが、不思議なことにその日からYouTubeにあさぎさんが出てくるように。
「あの本の人だ」と見ているうちに気になって調べ始め、魅力覚醒講座の存在を知りました。

魅力覚醒講座というのは、あさぎさんが主宰している女性向けのマインド講座。
好きなことを我慢しないで、自分の魅力を生かして、やりたい事を全部やる!といった感じのコンセプト。

そんなうまい話ある…?と疑う自分もいつつ、あさぎさん達はお金があってキラキラして楽しそうでいいなぁ…と羨む自分の方を強く感じました。

いつまで、こんな風に病気に振り回されるんだろう。
恋愛してるときは躁状態で、それ以外は鬱状態で食べて寝るだけ。
安定した暮らしがしたい。お金が欲しい。
たった一人でいいから、誰かに愛されたい。
私だって楽しく元気に生きたい!!

そう思った私は、最後の貯金の使いどころに、この魅力覚醒講座を選ぶことにしました。

そしてどうなったかというと…
講座での詳しい変化はこちらから!

たった一人でいいから、誰かに愛されたい。
切実にそう願って、魅力覚醒講座に申し込んだ私。

すると、なんと講座が始まる前に彼氏ができました。

14歳年下彼氏ができた!!

運命の人はずっと傍にいてくれた人だった

運命の人は、辛い気持ちを、ずっと聞いてくれてた友達でした。
彼もVRで出会った人で、彼の主催するイベントの主宰とスタッフという関係でした。

最初は面倒見のいい人だなーくらいの印象でしたが、一緒に遊ぶ時間が増えるにつれ、いつしか一番の友達になっていました。
元彼とのやり取りや私の病気の話も、全部リアルタイムで聞いてくれました。
お互い無職だったので時間があったのもあります。

VRで一緒に見た夕日

彼が、落ち込んでる私を沖縄旅行に誘ってくれ、二人で沖縄に行くことに。
その半年前に、彼が京都に来たときに初めて会って以来、リアルで会うのは2回目。

彼は関東に住んでいたのだけど、私が一人で飛行機に乗るのが嫌だと言ったら、神戸空港の便にしてくれて、神戸まで夜行バスで来てくれました。

神戸の異人館にて

空港でいつも通り話を聞いてくれて、「旅行は切り替えて楽しもう」と言ってくれました。

あんなに落ち込んでたのが嘘みたいに旅行は楽しかったです。
私達は最初から同じ部屋に泊まることに全然違和感がなくて、旅行中も新婚かな?っていうくらい仲が良く、彼といるととても落ち着きました。

めちゃくちゃ楽しかった

帰りは私が東京から夜行バスで帰りました。
お別れする時、離れがたくて、ギリギリまでくっついていました。
彼は「またVRで」と言ってキスしてくれました。

この人と結婚出来たらいいのに。
そう思ったけれど、彼は14歳年下で無職。
彼からしても、私と結婚することは考えられないだろうなと思いました。

でも、彼は私の全てを受け入れてくれました。
はっきり付き合おうとかいう言葉はたぶんなかったけれど、なし崩し的に結婚を前提に付き合うことに。

「恋愛的に好きっていうものより前に、でこさんを愛してる」というようなことを彼は言ってました。
元彼の話を聞いていた時も、嫉妬の感情はなかったけど、「誰よりもお前がでこさんをもっと心配しろよ、とは思っていた」そうです。
婚活していた時も、相手が誰でもいいから、ただひたすら私の幸せを願ってくれていました。

恋愛脳の私には、そこで「自分が幸せにしたい」とならないのが物足りない気もするけど、私が今まで受けたことのない大きな愛のような気もして、嬉しかったです。

見てくれこの新婚感

病気のことも、まともに働けないことも、子どもを産めないことも、ちゃんと確認したら「いいよ」と言ってました。
いいの?!
びっくりしたし、いまだになんで私で良かったんだろうって思います笑。

どこが好きなの?と聞くと、「ピュアなところ」と言われました。
私のことをピュアだと言ってくれる彼の感性が好き。

14歳年下彼氏をゲットできたのはなぜ?

正直、なんで彼が私を選んでくれたのか分かりません笑。
ただ、後に入った魅力覚醒講座で習ったことで、自然とやっていたことがあります。

  • 彼を信頼する
  • 全てを開示する

ということです。
それが出来た理由は、

  • パートナーが14歳年下で当時働いてなかったので、私の結婚相手候補から外れていた(純粋な友達だった)
  • 尚且つ人間的にはとても好きで尊敬できる人柄だった
  • お互い無職で時間があったためVRで一緒に遊ぶことが多かった
  • 彼が基本的に話を聞いてくれることが多く、否定などをせず全て受け入れてくれる性格だった

「みっともなくてしょうもない自分を全部出していくの。そうしても、嫌われないし呆れられない。むしろ好かれる。そんなあなたを好きっていう人だけが周りに残っていく」
というあさぎさんの言葉の通り、私の元には彼が残ってくれました。

そうは言っても、自分を全開示するのってなかなか大変だし、時間もかかります。

最初から恋愛対象として見ていたら、風俗で働いてた事は隠していたかもしれないし、子どもを産めない事は話すタイミングを見計らったと思います。
病気のことだって、少しづつしか出していけなかったかもしれません。

私の場合、友達と思っていたことで、全てを話せ、ゆっくり信頼関係を築くことができたなと感じます。
「この人は信頼できる人だな」と確信してからお付き合いが始まったので、男性として好きの前に、人間としてとても好きだし彼自身を尊重できます。

もし私と別れたとしても、彼の幸せを願いたいと思った初めての人です。

そして今、私は彼と東京で暮らしています。
毎日夢みたいに幸せです。
あの辛かった日々が嘘みたい。

Disneyで誕生プレゼントをもらった♡

彼との間で、症状は出なかったのか?
また前みたいに暴言を吐くことはなかったのか?

正直、彼の前でも何度かありました。
私がかっとなって、彼を責めるような口調になったけど、彼はそれに対してすごく落ち着いていて、売り言葉に買い言葉的なことが一切ないし、怒ることもない。
だから私がただ切れて、気持が落ち着くまでアイスを爆食いしたりするだけで終わります。

症状が落ち着くと、自分の頭で考える事ができるので、解説したり謝ったりします。
彼はそれもちゃんと聞いてくれる。

そんな中で、私はパートナーを全信頼できるようになってきました。

彼はめちゃくちゃ稀有な穏やかな人です。
まだ私の症状に慣れてないから、私がそういう時にうまく自分の気持ちを話せない、とは言っていたけれど。

最高に幸せな毎日

こんなに信頼できる人と初めて出会いました。
私が病気でも機嫌が悪くても泣いていても、変わらず傍にいてくれる。
彼がいてくれれば、これからの私の人生はずっと幸せ。

一旦、めでたしめでたし、ということで。
こんなに長い記事を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

彼との関係や生活にも良い影響を与えてくれた魅力覚醒講座。
講座によるその他の変化はこちらからどうぞ。
この記事と被るところもありますが、ご興味があれば読んでいただければ嬉しいです。

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目次
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